こいのぼり文化

去年mixiのほうに書いた文章の焼き直しですが、今日は子供の日ですね!みなさん柏餅食べて菖蒲湯はいってちまき食べましたかはいそこうるさい!

というわけでこいのぼりの歌について。
とりあえずそこらへんにいたちびっこに聞いてみたところ
「こいのぼり歌わないと!」
もーいーくつねーるーとー
「ばかやろお」
鯉のぼり文化の衰退を危惧せざるを得ない。

弘田龍太郎版のダイナミックさ

さてこいのぼり。これは二曲同名のものがあるわけですが、断然「甍の波」の弘田龍太郎にとどめを刺すと思うわけですよ。なによりメロディと歌詞内容のコラボレーションが見事。
「いらかーのなーみーとー」
ここらへんは助走段階。テンポをまず刻み付けるわけですね。「重なる波の中空を〜」まで徐々にボルテージを高めたかと思いきや、
「たっちっばーな、か〜おおるー」
で一旦それまで刻んでいたリズムを開放します。ふと重力が消える感覚。もうここで離陸したわけですね。
「たーかく、おーよぐーや」
で上空高らかに飛翔する姿も神々しいが、なによりそれをまたいったん下から
「こーいい、のーぼ、りー」
と視線がせせりあがってくるこの上昇感は並大抵のセンスではありませんね。参りましたね。唸りますね。

前半は甍の波、雲の波で平面的視点。それが後半一転して上下方向に切り替わる、その様がダイナミックにメロディでも表されているわけです。
そもそも鯉のぼりとは龍となって上っていく鯉の姿であった。その光景が目に浮かぶようですね。きわめて映像的です。やるものです。

近藤宮子版のふがいなさ

一方の近藤宮子版こいのぼりはどうか。
「屋根より高い〜」のほうです。おおむね平和なのはいいんですが、家族構成を列挙するのみ。およいでいるのはいいが、なんら目的というものがありません。なにが「おもしろさうに」だ。

なんという家族主義。惰弱。惰弱であります。徒競走のゴール前で手をつなぎいっせいにゴールを強要するかのごとき唾棄すべき近視眼。

これはどう見ても屋根より30cm程度の高さにとどまりますよね。「高くおよぐやこいのぼり」の333m感には及ばない。

たしかに弘田版も泳いでいるだけという見方もありましょう。よろしい。ではこれをご覧あれ。二番、三番の歌詞にてござる。両方とも著作権は消滅しているようでWikipediaでも堂々と掲載されていますね。

2:
開ける広き其の口に、
舟をも呑(の)まん様見えて、
ゆたかに振(ふる)う尾鰭(おひれ)には、
物に動ぜぬ姿あり。


3:
百瀬(ももせ)の滝を登りなば、
忽(たちま)ち竜になりぬべき、
わが身に似よや男子(おのこご)と、
空に躍るや鯉のぼり。


この力強さ!物に動ぜぬ、ですよ!めまいがするほど男らしい!
また「わが身に似よや」ですよ、この男親の愛情!多くは語らない厳しい父がこの日だけは鯉のぼりを必ず準備するんですよ。
マスオのごとき婿養子の「いやー、ぼくは見本になるような親じゃ…タハハ、メンボクない」などと笑ってる脆弱者とはわけが違う。

わが身に「似よ」ですよ。なかなか今時そこまで自信持って言える父親がいるでしょうか。
おれを超えてみせろ、ただしそのときはワシが死ぬときだ、さあおれを殺してみろ!ぐらいの、男の父と子にはこのような本宮ひろ志的関係がかつてはあったのでございましょう。むせ返るような浪漫に身が引き締まりますなあ。いやーまいった。


どうですか奥さん。「ヒロくんは、パパとママ、どっちが好き?」とか言ってる場合じゃないですよ!

そういえばもうひとつあった

なお、五月五日の歌にはもうひとつあって、せいくらべですね。
「柱の傷はおととしの」
このあきれ返るほどののんびりさ加減、弛緩ぶりはどうでしょう。これでは子供どころか老人ではないですか。

しかも「ちまきたべたべ、ねえさんが」とほのかなエロティシズム漂う箇所も、調べてみたら「にいさん」だったんじゃないか!そんなやついらない。